2026-07-12 / blog / 約4,183字(読了 約9分)

AGIの定義は誰が決めるのか——契約書から消えて「日付」になった言葉

「AGIが実現したら——」。OpenAIとMicrosoftの提携契約には、7年ものあいだ、この条件で効力が変わる条項が入っていました。その定義は一時「利益約1,000億ドル」という金額だったと報じられ、2025年10月には独立した専門家パネルが認定する仕組みに変わり、そして2026年4月27日、条項そのものが静かに消えました。あとに残ったのは「2032年」という日付です。AGIという言葉が毎日のように飛び交う一方で、「誰が・どうやってAGIと認めるのか」への答えは、契約・規制・学術でそれぞれ別の方向へ進んでいます。今回はこの「定義の現在地」を3つの論点で整理します。

第3回「モデルの国境」では、AIモデルの移動を国家が管理し始めた様子を追いました。第9回「国家がAIの買い手になった」では、国家が門番から顧客へと顔を変える様子を見ました。今回はもう一段抽象的な境界の話です。すなわち、AGI(*1)とそうでないものの境界を、誰がどこに引くのか

きっかけは今年4月の出来事です。OpenAIとMicrosoftが提携条件を改定し、7年間続いた通称「AGI条項」が姿を消しました。派手なニュースにはなりませんでしたが、この静かな削除は、「AGIの定義」という古い問題が実務の世界でどう処理され始めたかを示す、わかりやすい標本になっているように見えます。

論点1: 「AGIができたら」条項の7年史

この条項の一生を時系列で並べると、それ自体が一つの物語になっています。

  • 2019年7月 — Microsoftの10億ドル出資に際し、OpenAIは「pre-AGI(AGI以前の)技術」をライセンスすると表明しました。裏を返せば、AGIに到達した技術は契約の外に置く、という設計です。当時からOpenAI憲章はAGIを「経済的に価値のあるほとんどの仕事で人間を上回る、高度に自律的なシステム」と定めていました。
  • 2024年12月 — The Informationが、両社の合意ではAGI達成が利益で定義されている——初期投資家に約束された利益総額(約1,000億ドル)を生み出す能力をシステムが持ったとき——と報じました。両社はこの詳細を公表しておらず、あくまで報道ベースの情報ですが、知能の到達点が金額に翻訳されていたことになります。
  • 2025年10月 — 資本再編に伴う契約改定で、「OpenAIがAGIを宣言したら、独立した専門家パネルがその宣言を検証する」仕組みが導入されました。当事者の一方が宣言すれば契約の効力が変わる、という不安定さへの手当てです。
  • 2026年4月27日 — 再改定で条項そのものが消えました。MicrosoftのIPライセンスは2032年まで、OpenAIからMicrosoftへの収益分配は2030年まで——「OpenAIの技術進歩とは無関係に」続くと明記されました。The Vergeはこれを端的に「AGI条項は死んだ」と評しています。

「AGIに到達したかどうか」という検証しようのない条件は、巨額の取引を支える条項としては最後まで安定しませんでした。定義を精密にする方向へ2度動いた末に——金額への翻訳、そして専門家パネル——最終的に選ばれたのは、定義することをやめてカレンダーに置き換えることだった。そう読める経過です。

論点2: 規制は「知能」を測らない

では、法律はAGIをどう定義しているのでしょうか。答えは意外なほど一貫しています。定義しない、です。

EUのAI法には「AGI」という言葉が事実上登場しません。代わりに置かれたのが「汎用AIモデル(GPAI・*2)」という区分と、その中でも特に影響の大きい「システミックリスクを持つモデル」という区分です。後者の線引きは、学習に使った累積計算量が10の25乗FLOPs(*3)を超えるかどうかで推定されます。しきい値を超えた開発者には、2週間以内に欧州委員会へ届け出る義務があります。欧州委員会のガイドラインは、そもそもGPAIに当たるかどうかの目安にも10の23乗FLOPsという計算量を使っています。

米国にも同じ型が現れました。カリフォルニア州で2025年9月29日に成立した「フロンティアAI透明性法(SB 53)」は、規制対象の「フロンティアモデル」を10の26乗回を超える演算で訓練された基盤モデルと定義し、さらに年間売上高5億ドル超の「大規模フロンティア開発者」に義務を上乗せしています。

計算量と売上高。どちらも「知能とは何か」には一切踏み込まない、しかし確実に測れる数字です。契約が日付に置き換わったように、規制は代理指標に置き換わりました。これは必ずしも消極的な選択ではありません。検証できない概念を法律の構成要件にしない、という立法としては誠実な態度にも見えます。ただしその代償として、「この規制はAGIを捉えられているのか」という問いには誰も答えられなくなりました。計算量というものさしの意味は、技術の進み方次第で変わってしまうからです(EU側は、しきい値を後から更新できる設計にしてこれに備えています)。

論点3: それでも「定義」をつくる人たち

契約と規制が定義を手放していく一方で、定義を真正面からつくろうとする動きは、むしろ目立ってきています。

2025年10月にarXivに公開された論文「A Definition of AGI」は、その名の通り定義そのものを提案するものです。著者はDan Hendrycks氏を筆頭に、Yoshua Bengio氏、Dawn Song氏、Eric Schmidt氏らを含む33名。AGIを「十分な教育を受けた大人と同等の、認知的な多才さと習熟度」と定義し、人間の知能研究で最も実証的な検証を積んできたCHC理論(*4)に基づいて知能を10の認知領域に分解し、各領域を同じ重みで採点する枠組みを示しました。このものさしで現在のモデルを測ると、知識の豊富な領域では高い力を示す一方、長期記憶の保存といった基礎的な認知の部品に重大な欠落がある——でこぼこの認知プロファイルが浮かび上がる、と論文は述べています。時系列は前後しますが、Google DeepMindの研究者らも2023年に、AGIを0から5のレベルで段階づけする枠組みを提案していました。到達点を一点で決めるのではなく、目盛りを刻んでいく方向です。

当サイトが収集した研究記事にも、この流れの一端が写っています。今年3月に公開されたワーキングペーパー「人工汎用知能のための圏論的比較枠組みへの道」(著者には計算論的神経科学の重鎮Michael Arbib氏が名を連ねています)は、「AGIには単一の形式的定義が存在しない」という現状認識から出発し、強化学習・Universal AI・Active Inferenceといった互いに異質なアプローチを、圏論(*5)という数学の言葉で比較できるようにする枠組みを構想しています。定義が定まらないなら、せめて候補同士を厳密に比べられるようにしよう、という向きです。

興味深いのは、この間に産業側の語彙が静かに移動していることです。OpenAIのSam Altman氏は2025年1月のブログで「従来理解されてきた意味でのAGIのつくり方は、もう分かったと確信している」と書き、狙いをその先の「超知能(superintelligence)」へ向け始めたと表明しました。AnthropicのDario Amodei氏は逆に、AGIという言葉そのものを避けて「powerful AI」という言い方を選んでいます。社名や部門名に「superintelligence」を掲げる動きも現れました(Ilya Sutskever氏らのSafe Superintelligence社が代表例で、Metaも2025年夏に研究部門を「Superintelligence Labs」へ再編したと報じられています)。学術がようやく「AGI」を数値にしようとしている横で、産業の関心は次の言葉へ移りつつある——そんな非対称が生まれているように見えます。

観測点

いつものように、答え合わせのできる観測点を置いておきます。

  1. 大型AI契約に「技術到達」条項は戻ってくるか。 2026年内に公表される主要なAI提携・出資(ラボとクラウド事業者、ラボと投資家の間)で、「AGI/超知能への到達」を契約の効力条件とする条項が再び現れるかどうか。現れず、日付・金額型の条件ばかりになれば、「定義の日付化」は業界の標準として定着したと見ます。次に見る時期は2026年12月頃。
  2. EUの「10の25乗FLOPs」は動くか。 システミックリスクの計算量しきい値の数値変更、または能力ベースの基準の追加が、欧州委員会から正式に提案されるかどうか。据え置きのまま執行だけが進むなら、「代理指標で回す」路線の定着です。次に見る時期は2026年内〜2027年初め。
  3. 「AGIスコア」型の測定は公式資料に載るか。 主要ラボが次のフロンティアモデルを発表するとき、その公式資料(モデルカード・システムカード等)が、CHC型・レベル型といった第三者の定義枠組みへの言及や採点を載せるかどうか。1社でも載せれば、学術の定義が実務の語彙に入り始めた兆しと見ます。次に見る時期は次期主要モデルの発表時(2026年内が目安)。

空白は埋まらないまま、「処理」されている

AGIの定義問題は、解決していません。ただ、この1年あまりで「空白の処理の仕方」がはっきりしてきました。契約は日付へ、規制は計算量と売上高へ、学術は心理測定と数学へ。「AGIは来たのか」という問いは、もはや一つの問いではなく、どの帳簿で見るかという問いに分解されつつあるようです。それぞれの帳簿は、それぞれの速さで動きます。当ブログは、その帳簿のあいだのずれを観測し続けます。

注釈

*1 AGI(Artificial General Intelligence・人工汎用知能) — 特定のタスクに限らず、人間のように幅広い知的作業をこなせるAIを指す言葉。本文の通り、広く合意された定義はまだ存在しない。

*2 GPAI(General-Purpose AI・汎用AIモデル) — EUのAI法で使われる区分で、特定用途に限定されず幅広いタスクに使える大規模モデルのこと。

*3 FLOPs(浮動小数点演算回数) — モデルの学習に費やした計算の総量を表す単位。「10の25乗FLOPs」は10,000,000,000,000,000,000,000,000回の計算に相当する。

*4 CHC理論(キャッテル・ホーン・キャロル理論) — 人間の知能を、流動性推論・結晶性知識・記憶・処理速度などの階層的な因子で説明する心理学の理論。知能検査の設計の土台として広く使われている。

*5 圏論 — 対象そのものではなく、対象のあいだの関係(射)に注目して構造を扱う数学の分野。異なる体系を共通の言葉で記述・比較するのに向いている。

tags: AGI / 契約 / 規制

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